2008.11.13 Thursday
一本の映画を観て、認識ががらっと変わってしまったりする。
なるべく多くの作品に触れようと心がけはじめてから
考えていることが、なんども大きく変わって、
昨日、赤いと思っていたことが、今日、黒くなっていたりする。
(それは翻ってわたしの頭に空洞が多かったことの表れだろうが)。
『ヤンヤン 夏の思い出』を観た。
月曜日、阿部嘉昭先生の立教大の授業にもぐっている。
阿部先生は、アジア映画にも詳しいので、教えてもらった。
たしか、
アジア映画の叙情の質のよさに、着眼されていた。
複数の人物が、心理描写まで細かく描かれる。
言葉数が多いわけではない。
登場する女たち。アジアの女。
女たちの行動が、ひとつひっかかった。
「ひとりで泣く」。
自分の為に泣くのは、ナルシシズム、自慰的な行為だとおもう。
献身的とさえいうような、
共同体へ奉仕的に生きる、
そうする他に幸福というものと出会い得ない、
多くがそういう境遇にあるアジアの女たちは、それでも
何かの皺寄せのような状況にぶち当たって、
ひとり泣き、
そしてまた健やかに戻る。
健やかに戻る様子が自然に美しく描かれていた。
たとえば日本ではそういう風景を、
日本人の女を使って描けるだろうか。
日本人の女がひとり泣いたとして、
そしてまた健やかに戻る、そういう、
情緒が迸り溢れながらも、賢明に強く生きられる女性像が
現代の日本にあるだろうか。探したい。
ひとりで泣いたことが、
その涙が、静かに自然へと還っていくような。
「泣く」行為によって、
辛い現実において、
闘いのようにそれまで思考していた、その人の声が
そこで切断される、いったんバグ状態になってしまう。
そのときに、
その思考=声は、旋律として、
誰かに届くべき論理/符号であることを断念させられ、
「一音」になる。
そういう、「ひとり泣き」の「一音」が、美しく響けば、
そこに「うた」はあるのかもしれない。
少なくとも、人心が信じるにたるほどのものは。
「ひとりで泣く」のは、
無駄な行為、というか、甘えた行為だとして、
しないように、と思っている。
でもたまにひとりで泣いてしまうこともある。
現代社会における個人が、
自己再帰的な自我の構造をもたざるをえないからかもしれない。
「泣く」ときには、
やはり悔しさ(や悲しさ)等の感情に、
自分が支配されていると思う。
その「泣き」、嘆き、悔し紛れの行動、悲しさあまっての自暴自棄、
そういう生がいつでも、
小さく、生きることを取り巻いている。
そして、心、魂、人生が影響を受ける。
「泣き」によって声を切断されずに、
栄養として自己に取り込み、
何かに変えて産出していければいいと思う。
どういう方法によってできるだろうか。
2008.11.13 Thursday
【11月】
きらきらしながら
団地の窓辺で
秋の日が暮れるのをみている
熱いゼラチン液を注ぐ
片手鍋
せかいが固まるかもしれない
瞬間というもの
それは、あなたの前で
停まってしまった
小卓に向かいあう
にんげん
小菊も溶けている
何も知らない両足で走って
帰り道、まっ黒に沈んだ夜にいかれた
音の河に包まれて
私があるように
あなたをみつけた
拾い上げた楠葉を揉む
星を摘み取るしぐさで
おしくらまんじゅう
2008.11.13 Thursday
ふしぎな木のぼりする人が降りてくるのを待っている
tree or not to be --------------
●小池昌代さんの『ババ、バサラ、サラバ』
テニスコーツの『ぼくたちみんなだね we are everyone』について
(上、二方をゲストに迎えたレコ発イベントを2008/10/21三軒茶屋にて行いました。
http://mimurakyoko.seesaa.net/article/104961646.html
http://mimurakyoko.seesaa.net/article/108514838.html)
注:*「ふしぎな木のぼり」は『ババ、バサラ、サラバ』中の詩篇、
「tree or not to be」は『ぼくたちみんなだね』中の曲名。
かの女は羊ではない。涙の発作を繰り返している。
涙の発作は、まるでかの女の存在を透明にする。
その女は羊に似ているか?かの女は停止しているか?ちがう。
かの女は発作として、働く。気働きする。
キーキーキーキーキー*
ギーヨ ギーヨ ギーヨ*
タイへ タイへ ゆくのあたし*
ババ、バサラ、サラバ。
注:*は、それぞれ『ぼくたちみんなだね』中、「花びらのインド」「ドーナッツ」「マレーシア」より引用
声、女の声。弱さを弱さで庇うような、なけなしの、女の声。
押しに弱い。消え失せることと、生成することとを交互に点滅する。
そんな声使いのプロがいる。
愛情を、数値として書き直す。その過程では感情を死体安置所に留め置く。
そして語ることによって、愛情を、機械にさえ読み解けるよう正確に再生する。
正確に語られた愛情は、こうして機械に転写される。
機械は駆動し続け、やがて愛情はいたるところで生き始める。
詩篇「あんたたち、こども」では、とくに、
未知数の存在=子供に対しての認識(驚嘆、愛着/無頓着、回想)=愛情が
言語化されているようで、
読む快楽を味わった。
声の一部を機械に分譲した女は、分身が巻き込まれる速度に自らも巻き込まれ、
やがて、かの女は我を捨て、発作のようにして働くよりほかなくなる。
それで、透明になってゆく。
分身、双子の妹。「二度目の私」。
*
なぜ、二度詠みあげるのだろう
二度詠めば意味がとりやすくなるでしょう。
二度詠めば印象が強くなります。
一度目は去っていく、けれど二度目は
生き始める。
〜
つまり、二度ということは、すでにその時点で、二度以上ということなのです。
二度は三度でもあり、四度でもある。
〜
二度は二度以上をすべて含む、おおきな空間であるということです。
そして歌は、あらゆる歌は、二度以上の世界に生きるもの。
*
あらゆる詩は、このようにして、一度目の読者=詩作者に次いで、
二人目以降の読者に転写され、
二度目以上の世界へと放たれるのだと思う。
「タンカクウカン」という詩篇には、そのことがそのまま記述されていると思った。
「そのまま記述されている」こと。
作者の身体は、その言葉に足すことも引くこともないということか。
増殖構造を身体そのものに内包している。
この詩集に収められた詩篇は、どれにおいても
はっとするような、爽快なほど突き刺さってくるような、「効く」行がある。
ほぼ、「自分」を素材にして内省するように書かれているのに、
散文性に引っ張られない、淡々とした手つきが貫かれている。
その淡々とした流れを読み進めているうちに、突如、歌とメッセージが反転するようにして、
世界の亀裂そのもののような、響くフレーズに出会う。
文脈も何もないような、
あらかじめそこにあったような言葉。
淡々とした手つきは、まるで精神分析医の分身が己を解剖しているようだった。
帯には「小池式ミクロコスモス」とある。
内宇宙に、詩性が配置されていて、それを制御する術を体得した、声使い。
語らざるをえない者として、世界に配置されている。
声使いのプロとして、ここまで歩み来た者の体。自ら、自らをそのように配置して。
ときに痛みを伴いながら語るとき、その者ははじめて世界に対して公平になる。
その理由は、以下のミシェル・シオランの言葉が説明する。
詩人たちと一度も親しく付き合ったことのない者は、精神の無責任が、その自堕落が
どんなものか知らない。
彼らと付き合ってみれば、一切は許されているという思いをかならず覚えるものだ。
(自分自身を除いて)だれにたいしても釈明などする必要のない詩人たちは、どこへも行かないし、
また行きたいとも思っていない。彼らを理解することは大いなる不運というものである。
というのも、彼らは、私たちに失うべきものなどもはや何もないことを教えるからだ。
(『涙と聖者』)
*
涙の極意を極めた者。
彼らは実際にはただの一度も嘆き悲しんだことはないのである。
(『同』)
注:「シオラン」という人名は阿部嘉昭氏の詩集『昨日知った、あらゆる声で』中、
「昔 梨の花林を通過して」に出てくる。
*
女の、声。
彼女はほとんど発作のように働く。
死ぬときでさえ、美しく死にたいと思っているおんな。
だから、彼女がたとえ病気でも、信用はできない。
かの女は、行儀よく、ベッドに横たわっているのだから。
ここで、テニスコーツの曲をみてみたい。
*
Take me home (〜)
I want to be buried in snow
Feel gray sky
(〜)
I appear in winter and
Be in everybody's house
Mother rice, Mother rice...
(「テイクミーホーム」より)
*
「私」は家を探している。家が無い。
私が帰りたいのは雪の中。灰色の空を感じながら。
私はどこにいるかというと、冬の只中、みんなの家家、そこに偏在している。
ひとつの故郷が無い。いつも「どこか」にいる。
二人以上の私が。三人、四人・・・、あらゆる私が。
私は道であり、家であり、空であり・・・。
名前を奪われ、雪の中、地下に沈んでゆく、悦び。
おんなの鉛色の無名性、とでもいったものが、
『ババ、バサラ、サラバ』「メトロ」でも書かれている。
*
ああ 東京メトロ
さびしいメトロに乗って どこかへ行きましょう
行きたいところなど どこにもありませんけれど
〜
わたしは好きだ
明るい地上から 地下へと降りていく瞬間が
どんな横顔も罪で翳り
伏せられた眼から 数字が落ちる
背中に焼けた刻印を感じながら
わたしは何者かに 降ろされていく
住所も持たず 姓名もなく
眼も鼻も口もない のっぺらぼう
汚水の流れる 黒い世界へ
切符という免罪符を手に握りしめ
さらに
深く
降ろされていくのを よろこびとする
(「メトロ」)
*
「私」はそのようにいつも、変化のやまない場所そのもの。
そしてその場所場所を渡る「移動」だけがユートピックなものになりうる。
*
〜星から星へ 君が移る
僕を映す 新しくなる〜
日よう日
吾等移動
道からみちへ
音にかえて
(テニスコーツ「吾等の移動」)
*
そのたび、知られざる季節(unknown season)が、世界を黙らせ、
この移動という非場所がメロディックに響きだす。
*
Sheepies, sheepies, where are you going to go?
〜
Unknown season mute the world
Unknown season mute the world
(テニスコーツ「Sheepies」)
*
ただし、muted worldの楽園は
Sheepies(羊たち)への救済として与えられるが、
そこに一度、住んだならば、
移動そのものの力を羊たち自身のものにし、
世界と闘わなくてはならないだろう。
ほんとうの音楽の力は、そこで初めて実現されるだろう。
自我に当然にあると予想される倫理を前提に作られたこの、
羊たちの通行手形のしくみ。
この女の声は、語ることで、新しい(新時代の)主体に変わる。
新しい主体に変わることで、かの女は、ようやく赦される。
だから、この女詩人は、この詩を書いたとき、まだ現代には存在していなかったのだ。
女性性の力が、万能薬のごとく発揮されるのは、
その、女詩人が変化する過程の時だけだ。
羊たちは、だから、それを知らなければならない。
音響系と呼ばれる音楽が「場」を最優先するのは、とうぜんそのためだろう。
詩人が変化する過程の現場。それのドキュメント。
ただ、「場」で脱皮を繰り返すような、その熾烈で巫女手的なパフォーマンスを
「音響系」と規定される定式のサウンドの範疇で行えるような、
まだ、奏でられていない、掘り当てられていない領域は、
もう殆どないのではないかという気がする。
●
*
炭の母
真っ黒に焼けただれた
炭の母
それはどこから眺めてみても
途中というものの姿だった
〜
燃え上がっている眼球だけが
それらをまるごと記憶しています
炭の母は わたし
炭の赤ん坊も
二〇〇五年
だからわたしに
まだ現代は始まっていません
歴史とはなんでしょう
炭になっても残る
杏のかたちした陰唇の輪郭
(小池昌代「歴史」)
*
「母」というものに、炭の、杏の形の輪郭をした陰唇の記憶がまつわり
かの女にとって、「母」がそういうものであり
「歴史」さえも、「母」を通してしか考えられない。
その魂は、まだ現代にはいないのかもしれない。
小池昌代という書き手は、自らの身体を通じて、
女性性を書き換える仕事を担った。
その身体の奥から汲み上げては発される言葉の中では
女性性が刻々うごめいている。
自らの身体に、変換装置を置き、
全ての語を回収し、書き換えようとする。
そのため、その身体の時間感覚さえも、過激に歪められる。
「効く」一行として立ち上るフレーズは、まさに亀裂であり、
あらゆる語を身体中に回収するという
その詩作者の身体中におさまらなくなった、
非論理、正常な狂気、なのかもしれない。
どんなディテールをもって語ったとしても、
それが貫くべき仕事であるという自覚があり、凛々しく佇む。
そうして作られた作品は、美少年のような顔をしている。
佇まいは、凛々しくなくてはならない。
『ぼくたちみんなだね』の最終3曲は、祝言のように響き、アルバムが閉じられる。
多くの人の手が加わり作られた、無記名的な作品であることが伝わる。
その営み。ふしぎな木のぼり。
木のぼりに成功したとき、天を貫くその仕事を達成するのかもしれない。
猿の、少年の。
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無責任な、しかもまとまりのない文章になってしまったかもしれません。
宣伝のつもりで書きました。それ以上の意味はありません。
2008.09.20 Saturday
【外骨格の虫王―――小川三郎さんの『流砂による終身刑』】
彼らは選択を迫られた
――王様となるか、それとも王様たちのお触れ役となるか。
子供とおんなじで、みんなお触れ役になることを望んだ。
彼らは世界中を駆けめぐり、
――王様がいないので――
自分たち同士で、無意味になってしまった通告文を叫び合っている。
彼らはその惨めな生活に決着をつけたいのは山々なのだが、
服務宣誓のためにその勇気がない。
(カフカ「自選アフォリズム」)
一瞥して、キツイ書名だ、と思った。
しかしその装丁は、ほぼ真っ白、表紙題字も最少限のサイズで
これも銀色で左上寄せ、
なにか、宗教の礼拝用経典の小冊子のような存在感。
上に引用したものは、カフカの『夢・アフォリズム・詩』からの一断章。
この詩集を読んでいて、頭に浮かんだ。
「壁」という一篇では、
「私」の前に「桃」が現れる。
しかし良い匂いの「桃」と、「私」はフランクな間柄でありながら
「桃」はいつも「壁」に回収されてゆく。
それが「私」の現実であるが、「私」はそれをもう歎いてはいない。
*
〜
そんな風にしてみんな
ほかへ行ってしまう。
指で壁をカリカリしても
模様であってはなにもない。
悲しいのはそれだ。
しかし私の悲しみは
とっくに意味合いを別にしてしまった。
〜
(「壁」)
*
この詩作者(「私」)は「王になる方を選んだ」のだと思う。
そして彼は、「指で壁をカリカリ」している。
「カリカリ」のほかに、「化石をがりがり齧る」という表現や、
化石、鉱物、金属、鼠、昆虫(蟷螂、盲虫、羽虫)などの語が、
この詩集の一側面を作っている。
そして「終身刑」という書名がつくが、
暗さや情念のほうへは傾かず、乾いて明るい。
詩集の前半は、小気味よく、明暗の境界のような
静かに言葉の表面が張力した、
淡い声がくっきりと書き付けられている。
冒頭詩篇では、「真鶴駅」という「曖昧」な土地のイメージがそこに響いて、美しい。
神奈川県の太平洋沿いにはそんな土地があると思う。
またその地が、「均質的な郊外」にもなっていることは、
本詩集のもつ鉱物的な色調が映しだす。
何度か出てくる「黄色い花」は、傷めないように
やわらかな手つきで、扱われていて、
太平洋側の陽光までがみえる。
この詩作者は、
小説も音楽もあらゆる表現を試して、詩作に落ち着いたのだという。
そして、その詩の書き方とは、
奔出する言葉を一旦すべて書きつけ、
あとから、不要な分を刈り込む。というもの。
私はこの作者は外骨格なのだ、と、思った。
哺乳類は、身体の内部に骨格のある内骨格だが、
昆虫たちは、身体の外に骨格のある外骨格で、
そのために身体を大きくすることは出来なかった。
あらかじめ、言葉という骨格で組まれた身体。
人類や多くの生物の死滅後も生き残るのは小さな虫(ゴキブリなど)だという。
繊細な伝導体のような身体が、自身を虫のようなミクロの視点まで導く、
そんなことを思った。
詩篇によっては「私」は実際に虫になっていたりする。
禅的な認識の可変性。
私が虫である小さな時間。
その「小ささ」を通じて、王になったのだ。
そして「私」は、唐突にフツウの男に戻ったりもする。
小さい世界を往き来しているので。細かい波の間を縫っている。
以下引用部分の下から2行目の「でもいいや。」にはぐっときて笑った。
*
〜
目の前の道路一杯に
掴み合いをする人々が犇いている。
私はガードレールの上に座って
その成り行きを眺めている。
私の相手は何処にもいない。
あの動き方を拒んだからだ。
いきおい、知る権利まで放棄した。
それを後悔はしていないけれど
迎えの車が
これでは入ってこられないではないか。
でもいいや。
私の足の下には最早花など存在しない。
〜
(「段差」)
*
「でもいいや。」で、鉱物の声から、肉声へと転換した。
脱力によって着地する、この、小さなバサラ感は、
アジア的なものにも感じた。
そして、これこそは言葉の革新、という「新しさ」なのではないか。
*
〜
天が滑り込む隙間が何処にあるだろう。
この無年代に。
ビルとビルの隙間に人の飛び込めるスペースがある世紀は済んだ。
伝達をいち早く傷にすり込み
破裂させ
舞い散った無数のビラに描かれた文字は
強姦せよ、とただ一言だけ。
〜
(「猿」)
*
詩集の流れは、昆虫や、鉱物的な色調が主体になっていたところへ
最後より二篇目で、「猿」がうたわれ、その肉っぽさが強調される。
無(ゼロ)年代、
「ビルとビルの隙間に人の飛び込めるスペースがある世紀は済んだ」
=自殺が蓋然性をもつ時代も過ぎ、
この時代には「強姦せよ」とただうたわれる。
自殺よりマシなのか、酷いのか。
少なくとも、「新しさ」とは、
自殺=鉱物的なものではなく、
強姦=肉的なものだ、と、いうふうに読んだ。
これが先の「でもいいや。」にもつながる。
作者は最終詩篇で、美しい忘却の形で、
「肉的なもの」を総括している。
眠りに似ている。
*
手のひらに
花が降った。
私はうまく受けとめられた。
首だけになって花は堕ち
私の不吉な手相を隠した。
中心に向かって咲いている。
あるいは外へ
拡散している。
よく似たかたちが
私の内の何処かにあった。
〜
そして今さら
私の手のひらに花は降って
行き先のない手相を隠した。
途端に私は
昨日を忘れ
知ってるはずの明日をも忘れ
そこで初めて
見える線がある。
それを辿れば失くしたかたちへ
すぐにだって行けたはずだが
何故だか私は
花の内に
しばし留まり
忘却を待つ。
(「花押」)
*
最終連で、また「虫になっている」。
詩集前半では、虫や猫の視界や、人間の視界だったが、
詩集後半では神や獣(牛、クジラ)、死、
生物の進化、遺伝、血族、長い年月、大移動、移民などの語、テーマが扱われ、
視点がマクロへ移行する。
「小さな王」は、しかし、いまだ小ささの中から声を発している。
つまり、虫より小さな、染色体かなにか、細胞かなにかになっているようである。
この詩集は、語彙も常用の範囲で、「難しい」という敷居の高さを感じさせない。
リズムが改行に重く用いられていて、読み易いものだと思う。
私にはちょうど良かった。
マクロ視点の詩篇によって
「歴史」を考えずにはいられないような思いにさせられた。
細胞レベル、皮下レベルで、
身体にぐいぐいと「読み易い」言葉で、
そういう倫理観へ導かれた格好なのか。
詩にとって、そのような「力」が必要だ、と、
作者が考えているためだろうか。
詩に不慣れな人にもお勧めしたい詩集。
−−−−
*SNS上における阿部嘉昭氏からのコメント
う〜ん、小川三郎が「外骨格」型かどうかは
微妙な問題かもしんない。
最初、小説を書こうとしたが
文がたえず圧縮されてしまったと
彼が文学初志を語ったとき、
最も短い短篇や箴言に傾斜するカフカを僕もおもったんだけど
やっぱり語が詩性によってスパークしながら
削りあってしまう、というのが真相なのではないか
(「詩手帖」書評に書いたことだけど)。
小川三郎は矛盾運動を書く。
たとえば黙示録的に外界を熾烈に脱色しようとしながら
そこに自身の痕跡もからんで、外界が懐かしく内化される。
こうした矛盾をたえず潜ませる彼の改行、
その特質は「反語性」なんだよね。
三村さんの指摘した「でもいいや。」の自己縮減は
そうした性向が最も自堕落さに傾いたもので、
そこで廿楽さんの持ち味とは別相の恐怖も生じています。
小川さんの詩は読みやすい。
同時に「咀嚼困難」な面もある。
この同時性も反語性の別名ですね
2008.09.20 Saturday
選句・評 平成二十年五月
三村京子
特選句
やがて日々は
鋭き楕円軌道へと
「やがて日々は」というフレーズが、はじめは手垢の付いたもののようにも感じたが、一行空け、改行後に下の七五が繋がることで、あえてこのフレーズを選んだのではないか、という気がしてきた。「日々」=「日常」=「ルーティン」という「円環」のようなものが、「円」ではなく、「鋭い楕円」の環になってゆく、ということ自体が、この作者の存在の力、存在の強度のようなものを感じさせ、そのことが、手垢のついた言葉、何気ない言葉を使っていても、いちだんかい上の次元から世界見ている視線を保証しているとおもった。いちだんかい上、といっても、高みに立っているとかいうことでは全く無く、神の視線、とでも言ったらいいかもしれない。それが、旧来、季語によって語られてきた、超越性とでもいったものを代弁し、多行形、一行空けという手法を通じて、表されるのか、とおもった。
日々が楕円の(しかも鋭い)軌道を回っているということから、中心を離れたところに二つもち、そのような珍しい形の日々にその軌道を崩さず保ちながら毎日を送っている人を想像する。そのひとの目から見える人生とは世界とはどのようなものだろうか、と、気持ちが開かれる。
ただ、花田清輝に「楕円幻想」という文章があって、わたしにとってはたとえそれが典拠だとしても、そのような典拠が目新しいのだが、これを逆につまらないと思う人もいるのかもしれない。
特選句
満身の枯葉の光をいかにせん
どうしたらいいのだ、と得体の知れぬさだめを前に立ち往生しているひとの、早くなる鼓動が聞こえてくるように感じられたのは、「いかにせん」と、感情の力点を生々しいままの言葉で語っているせいか。そしてまたその立ち往生は戸惑いであると同時に、じぶんの身に未知の光、恩寵のようなものが沸きあがっている、静かで、たしかな幸福感に包まれてもいる。その幸福感は、「枯葉である身」だからこそのものであるため、諦めの感情とセットになっている。諦めと同時に身に降りかかってくる恩寵に出会っている人の、真新しい、驚きの声の響きが新鮮に感じられる。
盛り込まれている情報の量もちょうどいいと思う。一読読んで意味を取れるし、ふたつ続く「の」は、「満身の枯葉」「枯葉の光」「枯葉のように年取った身が光っている」「全身に、枯葉のように枯れて諦めたことによって得る智慧の光(のようなもの)が沸いている」「光っている〈枯葉=諦め〉を満身に浴びている」など、複数の意味を導くことができる。枯葉が光るというイメージも美しい。
特選句
かなぶんが光る万象鬱の網
「かなぶん」という一点によって、「万象」(=世界)が「鬱の網」へと反転する。世界が「鬱」でできた暗く巨大な網である代わりに、かなぶんは闇のなかで光っている。虫が基点となって、世界が逆さまになる、と吟じているひとは、じぶんが、擬似的にその「点」=「虫」になったことがあるのだろう。携帯メールを電車の中で高速で打つ親指、顔さえ合わせずにコンビニで買い物をすること、コミュニケーションのあらゆる場所で、こういう虫のような速度を入り込ませないようにするのは、現代において、かえって困難で、不自然なことなのではないか。
世界自体が混沌の様相を呈し、それに伴って言語も手に負えぬような変化を刻々続けている。それでも、ひとである限りは、祈りつづけ、混沌の世界の中にいて万象それぞれを、確かに見よう、とする。この句は、その祈りの息がどうしても挟まずにいられない息継ぎの瞬間を切り取っているようでもある。
そして、「網」との縁語によって、「かなぶん」は、先述したような大それたことの比喩ではなく、「網(戸)」を張った窓から夏夜の「万象」が鬱蒼とみえ、ただそこにとまっているという、情景としては何気ないものとしても受け取れる。そういう小ささに、この句は戻っていく。
問題句
光速のコーヒーショップ草はらに
「コーヒーショップ」という語が、字数を稼ぐ割に、そこに含まれる情報量が少ないように感じた。しかし、「草はらに」「光速のコーヒーショップ」がある、というイメージが、散歩などで行き当たった、草はら、あるいは公園の芝生などで缶コーヒーのようなものをあけている、という景色として、読むそばから像を結んだので、この句が目に留まった。「光速」の語が奇妙だが、「コーヒーショップ」から都市のなかでのことと連想され、都市ではあらゆる局面で「光速」が分泌されていて(例えば、缶コーヒーを買う速度、散歩に携行した携帯電話のメールの速度、そばを歩いてゆく女性のファッションの自分の頭の中の発想では追いつけないほどの奇抜なデザイン、など)、また、じぶんがそこで缶をあけるだけで、草はらをコーヒーショップに変えてしまうのも、一瞬にして、のことでもあり、面白みになる。
そのように一瞬で、光速で、場面がすり替わることは、季語の機能しなくなった現代においての、超越的なことのように感じられ、この句はそれを言わんとしているのだと思った。